昭和49年2月10日 月次祭



 今日は、前講を久留米の三橋先生が、おかげ頂いておりました。お話の中に、ここは和賀心で受けなければと。日頃信心の稽古をしておる値打はないと。思いもすりゃ、感じもするのですけれども、そこがなかなか和賀心で受けられない。まぁ和賀心という事が難しいもんだという意味のことをお話しておりました。
 究極のところ、お道の信心は、この「天地書附」にあると思うです。またあらゆる宗教、宗派の中にばつぐんの教えというならばです、この天地書附より以外にないと。教祖金光大神様が、ね、天地の親神様から受けておられるこのみ教えというものは、ね、もうあらゆる、いうなら宗派宗教を制覇しうるほどしの力を持っておると。
 それでお互いがそこのところを分からせてもろうて、本気で私共が、いわば一心発起して、いかにすれば和賀心が頂けるかという事を、頂こうと念願するところに、これは誰でもが頂けるものであるという事。
 ね、問題は、ね、本気でそれを頂こうという気になるか、ならないかという事と。というほどしに、この天地書附というものは、大変なみ教え。
 ご本部へ今度ご参拝になられた方は、皆さんもご承知でしょうが、あのお広前の、あの見事なご神殿が出来ましたが、そのご神前の目当てにはもう鏡もなからなければ、幣もない。ただ白木に天地書附、金光様が、ご自身でお書きになった天地書附が額になってこの、これのもっとちょっと大きいのが、神殿の中央にかけてあるだけである。
 金光教の信心はそれが目当てなのだ。ね。だから朝晩に、例えば唱えておるというだけではいけん。今日私は、教報を読ませて頂いておりましたら、私とあんまり変わらんような事をいうて、又実行しておる先生が、今度のご本部に、のご大祭の時お話なったのが出ておった。
 天地書附を二回、御祈念のたんびに奉仕をするが、ね、私は、えー、第一回目の、こう頭を下げたまま唱える。それは神様にお心に。次の、二回目の天地書附は、私の心の神に、いうなら、神様と私への、あれは奉唱である。
 ね、どうでもこれが、私の心の中に、血となり肉となって入ってしまわなければならん。ここでは和賀心で受けられたけれども、ここでは和賀心で受けられないというような事では、あーできない。
 ね、そこんところを、なら十分に知っておるはずの三橋先先が、次々と起きてくる問題と対決する時にです、一つ和賀心はどこに(やら?)ということになっておるという事。どういうような信心をさせて頂いたら、その和賀心を、まぁ和賀心と和らぎ賀ぶ心と言う心をです、ね、なら何時もかつもが、和らいでおるということばかりではないでしょう。
 又は、何時も喜べておるという事もないでしょうけれどもです、それに何時も本気で取り組んで、狂わせないという事。ね。
 これはどうでも一つ、私共が本気でそこに取り組んで、おかげを頂いていかなければいけないところなんです。
 今日、午後の奉仕をしております時に、上野先生がここへ出てまいりまして、今日、御祈念中に頂いたことをお届けしております。★それは、えー、そこに書いた…、歩、歩一歩というね、あの歩。一業と頂いた。歩は歩む。一は横一。行は商業、農業というあの業、業【わざ】というじ。「歩一業」ということを頂いた。
 ね、どういうような事でしょうかというのですね。ね、歩一業という事は、もう一歩一歩という事です。しかもこの業という事をね、この業【わざ】と教えておられるところに金光教の信心があると思うです。
 普通でなら、修行の行、行なうという字を、いうとこでしょう。ところが、金光様のご信心ぶりというか、金光様のご信心のまぁ尊いところというのは、ね、この行という事。「この方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞ」と仰る。家業の行。同時にその行は、この、業にも、勿論通じる事であります。
 ね、私共が例えば一歩一歩、信心を進めて行くというか、なら歩一歩、歩かせて頂くその、一歩一歩が信心でなからなければならないというのです。ね。
 どうでしょうか、何時も、自分の心の中に、神様を頂いておる。一歩一歩例えば踏みしめ踏みしめ生神金光大神が、私の心の中に働いてござる。生神金光大神、お取次ぎの働きが、一歩一歩、その事に対するお礼が申されておるというような、状態を。
 最近の上野先生が、まぁそれこそ非常に気の強い方でもありますから、根性もなかなかしっかりしてますから、ね、神様へ向けては、あー、本当に、一途なものがあります。けれども何時も先生の場合この人間関係で、その何時も失敗しておる。自分が例えば正しいことをしておる、ですから、正しくないと見たら、もうそれが許されないというような気持ちが何時もある。
 自分は信心になっておると思うておる、それに信心でなっていないと、それをやはり責める心というか、ね、そこんところを、あれはそういうもんですね。なかなか正直な人は、正直でない人が目立つ。そしてそれを責める。ね。だらしの無い人なんかは、ね、自分がだらしが無いから、人のだらしの無いのを見てもそう気にならん。人間じゃけん、まぁあんくらいなこと、という事になる。
 けれどもなら、反対に、その真面目な人がです、だらしの無い人を見ると、はー、あっちゃもうだらしがないというて、いう。ですから、どっちかというと、そりゃ、あんまり、その自分が正しいから、正しくないのを責めるというよりも、まぁ正しくない方がよかような感じさえするのですね。
 上野先生なんかそこんところは、なかなか律儀で、なかなかその、いうならば、何でもここの楷書で書かなければ気が済まん。それを行書でん書きよると、こげなろくそなことをしてというような、そのものがある、それに非常に取り組んで悩んできた。
 最近の先生をみておるとね、それが無くなった。人間関係が実に円滑にいくようになった。まぁいうならば歩一歩、いうなら神様を心からはずさんで本気で和賀心を目指させて頂いておるという事が、よう、こう一緒に修行させてもらっておって感じるのである。
 ね、これはもう本当に人じゃない。人の、自分の足元、人の、足元だんじゃない、自分自身が助かる以外にはないんだと。自分自身が助かるという、おかげを頂かなければ、人が助かるはずがない。まずは自分が助からなければ。
 それなら、人の例えばそういう、不味の点とか、又は不行状の点を見て、一々腹を立てとったりするようなことではならんという、「人の不行状を見て、わが身の不行情になること」というような、教えが段々分かって来た、身に付いてきた。
 ね、そこに最近の上野先生の助かりをです、私は感じておる。ね、それでも神様はです、もう一つ、いうならば、芽の詰まった信心をさせて頂いておるがです、それをもう一つ芽を詰めた信心をせよと神様は求めておられる気が致します。歩一業ということ。
 御結界で奉仕しておることも、御祈念をしておる事も、神様の御用をこうさせて頂いておる事も、裏で洗濯をしておる時も、炊事の御用をさせてもらっておる時も、ね、それはね、その行こそが金光教の行なんだぞと。
 ん、だから、この歩一業という業には、ね、金光教の独壇場とも思われる、この方の行は家業の行というのと、信心修行とか、二つを一つにした感じですね。そりゃ金光様のご信心は、家業の行ちいいござるけん、もう家業の行さえしときゃよか。ね、それが本当に家業の行になっておりゃいいけれども、家業の行になっていない。
 ね、ただ時間が欲しい、お初穂が欲しい。ね、体がきつい。ね、お参りする時間があるなら、テレビどん見とったほうがよかと。ね、それで家業の行とはいえないのです。家業の行というのは、信心修行が出来て、ね、その信心修行を持って、ね、家業がなされる時に、初めて家業の行という事がいえるのである。
 昔、★「天行地業【てんぎょうぢぎょう】」ということを頂いた事があった。天地人と申しますから、やはりこれには、人行というものもなかならければいけん。天行ということがです、ね、天の行という事は、あー、天を行なうと書いてある。
 まずは天行が出来なければならん。それをここでは成り行きを大事にする、又はおん事柄として受けて行く。神様が私に求めたもう修行を、本気でそれを修行として受けるということである。天行。
 これは、天が氏子に求めたもうところの行である。ん、この行を、一つおろそかにしないように、ね、又受けて受けて受け抜かせて頂くという精神。これが一番最高の行です。神様が、私に求めたもう修行ですから、ね、本当におかげ頂くためには、神様が求めて下さる修行をね、やってのけれる修行。
 ね、そのために、一つの人行というのがなされなきゃならない。人行というのは、なら自分で色々に工夫をする。ね、例えば寒行とかね、この頃から寒、寒中修行がございました。今度は寒中( ? )大変色々におかげを頂いた。ね、その寒中修行に、例え、その人間が、自分で発心するとか、自発的にする行を人行だと思う。人の行。
 ね、中には断食行もあるでしょう。火の行水の行もあるでしょう。それがやってのけれれるくらいな、私は信心が、精進が出来なければ、天行は、そんなにてっぱやすうは受けられない。
 いうなら、天行が一番難しい。天行もね、自分の都合のよか時に、はー修行として受けるけれども、いよいよぎりぎりのところのところになってくるとです、ね、それを右にし、左にするといったようなことでは、もう天行ではありませんからね。
 だからそういう、例えば、厳しい立場に立った時でもです、ね、常日頃、自分で求めての修行でも本気でさせて頂けれるぐらいな人でなからなければ、やってのける事はできません。ね、その上にあっての地業である。地業とは地の業と書いてある。
 いうなら、商売をしておるもんなら商売が業であり、百姓しておる者は、百姓そのものが修行である。ね、そのものを、ただね、食うための働きといったような事にし、いわずに、そのことを修行と思うて、させて頂くというのである。それが地業である。
 ね、天行地業。その天行地業が本当になされるために、一番大切に、例えばしなければならないのは、人行である。人行が出来なければです、家庭の本当、家業の行も本当の意味で出きるはずがありません。勿論天行のどは、出来るはずがありません。
 今朝の御理解の中に、昨日教報が参りました、一番始めのところに、そのこういうお話がのっておりました。この頃から、アメリカから南米、あちらの方を視察に回っておられます、本部の偉い先生方が。おそらくその時の話しであろうと思うです、どこどこの誰々という事が書いてありませんけれども、ある大西洋、大西洋沿岸から、又、その海を少しいったら、小さい島がある。その島にお道の教会が一軒ある。日本人もほんのわずか。
 どうしてこういう寂しいところに、教会を開かれただろうかと思うくらいである。そこを訪ねた時に、そこの先生が、いわれたこと。最近本部で、ね、お道の信心を、いうなら世界にしくといわれております。金光教を世界にしく。
 ね、金光教の信心をです、世界各地に広めて行くとこういう。いわれておりますけれども、本当にしかずして、しかないものが、それをいかに言葉でいうて、分かるはずはないていっております。ね。
 金光教の信心を、例えば教会を何処にも造る造るというてもです、本当に行って自分で開いてみたもんでなからなければ分からんのだと。なら金光様のご信心が、例えば、さぁ、海外に出るならば、準備もしてある、家も建ててやろう。しばらくは、なら給料も送ってやろうといったような宗教じゃないのですから。
 ね、ようもようもこんな島の、しかもこんな寂しいところに、どうしてこういう教会が出来ておるだろうかというところに教会がある。ん。持って行った金をもう使い果たした。御神飯も、もう今日が限りという時があった【感動されてる】。ね。
 ね、水平線の彼方を祈って、ね、祖国日本の、いわば、誰彼のことを思うたり、もう望郷の念、止みがたいという時もあった。ね、そういう時に、ある内地で、えー、まぁ自分が尊敬しておる先生に手紙を出しておられる。その手紙の返事に、その先生が、ハガキをよこしておられる、それにです、ね、いよいよね、いよいよいうならば、手も足も出らんとほどなっておられるという様子をよく分からせて頂いたが、そうであればあるほどに、何一つとして、送ってあげるわけにはいかんと書いてあった。
 ね、まぁどうやらこうやらしとる時の、援助ぐらいは良いです。けれども、もういよいよギリギリ、これは神様が、彼に求めたもうておられるんだと。その修行が思われた時にです、ね、いうならば、千円の金ですら送ってあげるわけにはいかん。一升の米さらめぐむわけにはいけんと、まぁ厳しい返事が来たというのである。
 ん、いよいよ今日は御神飯のもう炊き治め。あった金は使ってしまった。もう米もこれだけという、そこのところをです、ね、いうならば排水の陣といいますかね、もう命がけでのご信心が出来られた。その翌日から、どこからともなしに、これが集まってきたち【感動】。ね。
 どこからともなしに人が集まってきた。最近では白人の方達もお参拝になるようになったと。その先生の話しを聞かせて頂いて、その御本部の偉い先生方がです、ね、世界に、金光教を広めるというけれども、ね、自分自身が布教したこともない。自分自身が海外、そういうところで、教えをしくというところの覚悟も出来ずしてです、ね、ただ世界に教えをしく、世界に教えをしく、というておるだけではいけませんと。いわれたという話しが、出ておりました。
 これは、ね、いうならばお道の信心も通るところを通らせて頂くという事が尊い。これがです、迂闊にしておる時には、なかなか出来ませんけれども、一心発起それを受けてたという、本気になったら出きるです。
 ね、それこそです、合楽の信心をぎっしり身に積めていって、もういよいよ金もなくなった。もう今日きりで御神飯もなくなった、という時にです、ね、私は心の中にそれこそ、にこっと笑いたいようなものが、もういよいよ、おかげの受けられる時期が近付いたというような、私は確信が出来るような信心を、合楽では私は皆さんに分かってもらおうとしておるということであります。
 ね、それは何故かというとです、今、今日私は申します、天行地業、同時ににんじ、まぁ人業と名のいうような事は、今日私は初めて言ってますけれども、言葉を変えて何時も言っておるわけです。
 こういう修行が出来ておる限りです、ね、おかげが頂けれるんだと。ね、例えばなら三橋先生じゃないけども、こういう事を言われた時に、ね、それを天行だと、そん時悟らせて頂いたら、ね、なるほど、和らぐとか賀ぶとかという心はないけれども、これを天行として受ける。神様が三橋ミツカに求めたもう修行だと悟らせて頂く時に、それは受けさせて頂くという事を一心発起しておるのだから。良い事だけを下さい、悪い事はいりませんと言うておらんのだから。
 私の上に起きてくる一切の事を、天行として受けますという、本気での信心が出来ておる限り、それを、ね、にこやかには受けられなくても、それを本気で、姿勢を正して受ける事ができると思う。ね。
 天行という事はだから、もう本当に、いや、天行を全うするというかね、起きてくる一切の事柄を修行として受けていくという生き方はです、神様の願いに答えた信心なのです、だから喜ばれるのです。もういよいよ、本気でこれが、間違いがないと分かったところから、もうどこからともなしに米が集まってきたというのである。
 ね、そこに神様の喜びがある。ね、私共の助かりがある。ね。そのために私共は日頃です、ね、しっかり、それこそ火の行水の行もなんのそのというような、修行でもさせて頂いておらなければです、いよいよの時に落第する。
 ね、神様がいよいよ、求めたもう、これを乗り越えたらという時にです、乗り越え切らんで、やはりぐずぐずしておらなければならんということです。
 ★今朝から、聞いて頂きました、今日私がお知らせを頂いた事が、こう竹のようなもんが、こう竿がこうある。それにこう、植木、あの、下げてある。植木が。あの蔓忍と申します。忍という、あの羊歯の一種ですはね。
 を丸くして、夏なんかはよう、こう縁先なんか下げましょう。あの蔓忍がこう下げてある。しかもしょろ、しょろのこのなわが、今にも切れそうにしておる。それが下げてあるこちらには、朝顔が下げてある。朝顔のつれこうやって、花が咲いておる。もうそれこそ朝露を含んだような、清々しい情景である。ん。
 私はね、本当の、神様が下さろうとするおかげ。氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るおかげ。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるというおかげ、これには、何というても、信心には辛抱することが一番大切でございますと仰せられる、その辛抱である。
 三代金光様が仰る、その辛抱である。私は心眼に拝むと、その綱がね、今にも切れそうにしておる。そういう時もあるんだと。もう、もうたまらんと言う時もあるんだと。ね、けれどもそこを、いうならば泣く泣くでもよいから、辛抱しぬけと仰る。
 三代金光様のお言葉に、泣く泣く辛抱しました。とおうせられておられる。初めの間はそうなんだ。ね、だから泣く泣くでもよいから、そこを辛抱しぬけ、蔓忍である。ね、そして、清々しい、いうなら朝参り的信心である。
 朝顔に、朝露がふくんでおる、ふくんだ花を持っておるという情景を、もう本当に清々しい。ねむうしてこたえんというても、それを見たらぱちっと目が覚めるような清々しさである。
 そういう朝参り的信心と、信心辛抱し貫かせて頂くところからです、ね、神様が下さろうとするおかげが受けられるというお知らせを頂いた。次に頂いたのは、ちょうど私がたま、何時も大祭の時にあげる、こげな大きな玉串を、逆さまにこうやって頂いた。
 榊という字は、木偏に神と書いてある。いうなら、神の木、神の心である。私共が本気で一心発起させて頂くところからです、いうならば、もう本当に起きてくる、私の上に起きてくる一切の事を、これは修行、天行として受けさせて頂くと、一心発起させて頂くとです、ね、それは難しいです、けれども神様の方がよりそうて来て下さる。降りてきてくださる。こちらからいこうという、すると、神様の方から降りてきてくださる。
 ね、誰かが、お夢に頂かれたというように、これこそ断崖絶壁一番上にのぼらんならん。と言われるけれども、こげな事を登れるはずはないとこう思うてみておる。それでも登らねばならんから、生神金光大神様で一生懸命登る気にならせて頂いたらです、ね、上からもう蔓のよなものがいっぱい下がってきておる。その蔓にこうやって、すがって登ると、足の置き場がある、手の置き場があり。又はその、蔓があるという風にして、もう楽にそれを登らせて頂いたと。それなんです。
 だからとてもそげなことは出来んというたらそれまでのことですけれどもね、本気で一心発起やらせて頂こうと。本気で、神様が私に下さる修行ならば、もうそれこそ合掌して受けますというね、発心が出来る時に、出来ないようなところであっても、神の方がこうやって降りてくださる。神様の方が下がってきてくださる。そんな、今日はお知らせを頂いて、そんな話しを今日は聞いて頂いた。ね。
 和賀心。ね、和賀心を目指す。いわば和賀心を頂かせて頂く為の、み教えの全てであるとさえ思います。ね、そこでです、それを例えば要約して、ね、一番生粋のところを申しますとです、天行地業ということになる。
 そこで私共が、これは人行。私共としての、出来る限りの精進努力というものを、させて頂いて、ね、力をやしのうと、おかなければ、ね、出来る事でも出来ない。
 ん、こんな事で失敗してと思うようなことで、失敗をしておる。ね、そこに、私は和賀心が約束される。ね、結局和賀心というものがです、金光教の信心の一番肝心要であり、ね、同時に私共の信心生活の焦点である。
 ね、どうぞ、今月今日一心で頼ませて頂く事はです、私の心に和らぎ賀ぶ心を頂かせてくださいということですから、ね、それを願うからにはです、いわゆる天行地業、人行というような行に本気で取り組ませて頂く事。
 ね、歩一業。ね、歩一歩。とにかく、一歩一歩が、信心でなからなければならない。ね、それが金光教の家業の行であり、信心修行である。それが、こうあいまって行く所にです、ね、完璧なる和賀心とはいかないでも、その和賀心の内容というものが、一段一段豊かに有り難いものになって行く。
 そこに、私はおかげを受けられるというおかげであってこそです、あの世にも持っていかれ、この世にも残しておけれるおかげであると思うのです。ね。
 どうぞ今日の、一つ、天行という事がどうことかがわか、改めて又分かりましたね。修行という事も分かって頂いたと思うですね。地業というのは、お互いが頂いておるところの天行のことです。天行というのは、天職のことです。ね、頂いておる仕事の、そのものがです、ね、神様に使うて頂いての行です。
 ね、えー、今日、教報に出てましたがね、ある、満州引き上げのお医者さんが、ある都市で、市の病院に勤められた。その病院が、普通一般にそれがあの、渡されることになった。何人もの、それを欲しいという候補者があった。
 そん時に、自分の親教会の先生にハガキをだされた。そしたら、ハガキで金光大神に委員長になってもらえという返事が来た。金光大神に医院長になってもらえという、はー、そうたい自分が医院長になろうとしておったことが間違いであった事に気付いてです、改めておかげを頂いた。
 あるしかい議員の方が、自分な、いわよそ者で、そこに顔みしりもないのに、その当時のお金で八百万という金を銀行から都合して下さった。そして、それが開かれた。大変繁盛してきた。繁盛してきたら、困った時、難儀な時には、もう必ず自分が医院長さんになっておる事に気が付くという意味のことが書いてあります。
 人間というものはね、はー、こりゃ自分が、自分の病人で場所あるようにというような、ところを改まると、又おかげが続く、続いておるという話しがのっておりました。
 ね、だから、私共は、いわゆる地業というのは、そういうあり方にならにゃいかんのです。神様に使うて頂いておるところの御用なのです。それを神様を使うておるような事では、本当の地業とは言えません。と言うことを今日は地業の内容として、聞いて頂いた、ね。
 だからその天行地業が出きる事のために一つ、本気で人行をなさなければいけませんということ。ね、そこに期せずして頂かれるのが和賀心であると言う事。ね、この和賀心が金光教の信心のいうなら、眼目であるという事。
 それを受けずしては、神様も助かる事は出来なさらない。私共もここんところを頂かせてもらう時に、初めて神様が助かって下さる。神も助かり、氏子も立ち行くという道が顕現されて来るわけでありますね。どうぞ。

梶原 佳行